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金沢市田上公民館ブログ

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12月の歴研は、若松の歴史と字名を

Posted by 金沢市田上公民館 on   0  0

12月の歴研は亀田さんに
 21日の午前、12月度のふるさと歴史研究会を開催、ほぼ全員の出席を頂き本年最後の学習を行いました。私からは、年末年始の期間、市内における様々なイベントや食に関する資料等を配布し、26日に開催します二宮金次郎像復元への会合と像の歴史等を報告させて頂きました。
 講演は、亀田さんに担当頂き、「第11章・若松荘の成立の謎に迫る」について、松尾三郎さんが取りまとめました貴重な資料と字名調査結果を再まとめして報告したもので、新たな発見もあり、謎の部分も出てきましたと率直に話され、研究会として研鑽を深めることや鈴見町と旭町(牛坂村)の資料調査を進めていくことを確認させて頂きました。
ー 田上と若松の歴史概要 ー
1、歴史上の田上は・・・
  ①わがふるさと今・昔(平成4年11月発行)
   平安時代前期の延長5年(927)の『延喜式』(法律・律令の施行細則)に、「田上駅 加賀国加賀郡 馬五疋常置」と歴史上に   現れました。
   ※田上駅・・・
   7世紀の律令国家時代に、都と地方の連絡を緊密に行うため「駅制」という交通制度をつくり、全国に道路網を整備した。北陸  には、近江を起点として佐渡に到る『北陸道(ほくろくどう)』がつくられ、中継地として「駅」が等間隔に置かれた。平城京長屋王  邸跡から「江沼郡潮津駅(うしおづのえき)・現在の片山津」の名を記した8世紀初めの付札木簡が出ていることから、7世紀後  半頃には整備が行われていたと思われる。
2、しかしながら、長岡京出土木簡(別紙資料)からは・・・
  木簡の右側 表に「田上郷戸主道公足□□□□□」
     左側 裏に「延暦九年三月八日」と記されており、927年以前の790年には「田上郷」として存在していたことになります。
  ※なお、784年、平城京から長岡京となり10年間都となっていた。
3、わがふるさと今・昔の「田上郷」を
  ①承平5年(935)にまとめられた日本で最古の百科事典である『和名類聚抄』に、当時の加賀の国加賀郡七郷の中に「田上
   郷」で出てきます。
  ②しかしながら、長岡京出土木簡からは、田上郷の名があり
  ③郷土歴史研究家・亀田さんの研究資料によれば、弘仁14年(823)3月に越前国加賀郡から加賀の国が成立し、同年6月、   江沼郡を割って能美郡・加賀郡・石川郡となり、田上郷は「加賀国加賀郡田上郷」となる。
4、若松は・・・
 ①南北朝時代の文和3年(1354)、地頭職・狩野義茂に「若松荘地頭職」を与えるという『足利尊氏』の文書に、若松荘として歴  史に現れる。
 ②しかしながら、「日本荘園大辞典」によると、『師守記、貞和3年(1347)3月条の、若松荘をめぐる京都の城興寺と岡崎範国の  相論記事が初見』とあり、若松荘の歴史の登場は、7年さかのぼることになります。
 ③若松の名前が一躍躍り出てきたのが、1487年、蓮如上人の息子・蓮悟さんが若松本泉寺を建立し、1年後の長亨2年、守   護・富樫氏を滅ぼし「百姓のもちたる国」となったことによる。
若松地区の図と字名

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